トインビー対談を対談する

関西創価学園卒と創価大学卒の青年部が『21世紀への対話』とがっぷり四つ!「はじめに」からどうぞ!

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2011.05.10 Tuesday
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4. 知識人・芸術家の政治参加

2007.12.13 Thursday 03:33
 わが国に限ったことではないだろうが、大衆の中に政治や政治家そのものへの不信感というものが常に一定数存在するものと見受けられる。しばしば見られる政治汚職や国会での茶番劇・権力闘争などを見ていればそうなるのも当然とも考えられる。そのため、政治に直接関わる人はもちろん、それを支援する人に対してもどことなく「胡散臭さ」を感じてしまうのもまた現代的風潮と言って差し支えないだろう。
 このパラグラフでは知識人・芸術家といった人達の政治参加に関して考察されている。
一般にこうした層の人が政治に関与することは望ましくないとする意見が根強いように感じられるが、果たして政治との関わりをどのように考えていくのか、対談から拾ってみたい。

・今日の政治的社会に無関係な人は存在するか

 創立者は「およそすべての人間は、それぞれ政治的社会から隔絶して生きることはできない。何らかの意味で政治と関係を持ち、社会からの影響を受けて生活しているからである。」と述べ、知識人や芸術家と言えども、何かしらの政治社会との接続を余儀なくされているわけで、当人が政治に無関心であるにしても「無関係」でいることはできないというわけだ。これは少し考えれば妥当性を持つものだと誰でも気付くことができる。例えばアーティストは作品の発表に際して著作権を主張するのであり、生活の糧をそこから得るのであり、収益には税金を支払うのであり、権利侵害を受ければ法に訴えるのであり、山に籠もるにしても戸籍を失うのではないし、入る山にも所有者があり、権利があり、全ての行動に何らかの政治的仕組みが作用することを逃れることはできないし、それをいたずらに忌避することは到底現実的ではないということがわかるだろう。
 トインビー博士は前パラグラフと同様の論理を展開し、「どんな人もまず何より人間であり、人間である前に知識人や芸術家ではありえない。しかも、人間はすべて社会的な動物である。つまり知識人にしろ、芸術家にしろ、すべて人生の諸問題には関わり合いを持っている。」と前置きした上で、「知識人なり芸術家なりが、もし普遍的、恒久的な問題を無視するとすれば、それはその人の愚かさをさらすようなものである。そういった問題を無視する理由が、もし無関心や無知によるものだとすれば、その人の精神はまだ啓発されていないということであり、したがって人々の心を啓発することも出来ないことになる」と主張した。どのような立場にあろうとも人間は人間以外ではありえない。この視点を揺るがせにしてはなるまい。
 政治との距離をきっぱりと置いている人は一見すると清廉に映るのかもしれないが、実は自他共に必然的に関わらざるを得ない普遍的問題を避けて通ろうとし、どこかの誰かがやればいいというある種の責任放棄の態度を自ら晒してしまっているということになると言えないだろうか。両者はこの種の態度に対してはっきりと否定する立場を取っている。

・警戒すべき権力の魔性

 知識人や芸術家は自己の信条・生き方はもちろん、その特性上、自分が追求する分野に関して「純粋性」の保全が期待されるのは当然である。対談パラグラフにあった『文学とその役割』において、(政治的な目的を持つ作為性を含めて)何らかの功利性を意図した作品には真の芸術性が保たれないことが語られたが、知識人や芸術家が政治参加する際に注意せねばならぬことは、政治権力が本質的に含有しているところの「権力の魔性」に魅入られ、取り込まれることであり、それによって自らの純粋性が欠損し、もって芸術性までもが破壊されることである。まさに自滅と言える。古今東西の歴史を見ると確かにこの自滅パターンが多い。それ故に知識人や芸術家は「政治との距離を置くべき」と認識されるようになってきたのであろう。
 だが、権力の魔性の本当のありかは政治にあるというよりは、各人間の「己」の中にあるのだ。権力を縁として人間の中の魔性が頭をもたげてくるということに過ぎないはずだ。そうであるならば、この問題に対処するために必要なことは「政治を避ける」ことではなく、「己との間断無き闘争」ということになりはしないだろうか。
 知識人と政治というテーマとは少し離れた結論になっているが、創立者はこのパラグラフの締めとして次のように語っている。
 「私は人間とは思想により理念を形成し、理想を設定し、それへ向かって努力する存在であり、ここに人間の尊さがあると思うのである。いま現実にどうであるかという分析、真偽の判断ももちろん大事である。しかし、それらもこれからどうあるべきかという理想があり、それを実現するにはどうすべきかの判断基準にするために必要なのである。私は人間とは理想を追う存在であるということを踏まえ、しかも現実性を重んじていくという、この両方を包含していくのが中道であり正しい考え方であると考えるのである。」

-伊達半蔵-
上巻・第三章(知的生物としての人間) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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