トインビー対談を対談する

関西創価学園卒と創価大学卒の青年部が『21世紀への対話』とがっぷり四つ!「はじめに」からどうぞ!

スポンサーサイト

2011.05.10 Tuesday
この広告は60日以上更新がないブログに表示されております。
新しい記事を書くことで広告を消すことができます。
- | - | - | pookmark |

はじめに(先頭記事)

2011.05.10 Tuesday 19:11
 この度、関西創価学園卒業生「継之助」と創価大学卒業生「伊達半蔵」が、歴史学者アーノルド・J・トインビー博士と関西創価学園・創価大学創立者である池田大作SGI会長との畢生の対話編『21世紀への対話(英題:Choose life)』を全身全霊で読み直す機会を持つことにした。

 今、まさに世界はカオス(混沌)の真っ只中に投げ込まれている。ほど近い昔に人類は「自然権」を創出し、認識し、法の根拠としても「個々の人間の尊厳」を高らかに謳い上げた。だが、その「個々の尊厳」という理念は途方も無い大量消費社会、各国家による国益重視政策、幾重にも絡み合う社会システムの不合理性、そしてそれらに依拠した人的ネットワークの巨像を前に立ち往生せざるを得ない状況に追い込まれているのではないだろうか。ここに至って個々の人間が持つとされる尊厳や本質的可能性というものは「それ自体」不合理なイデアではないのかという「冷えた憶測」が頭をもたげてくる。我々は個としての人間の善性を比較的容易に信ずる状況を手にしている反面、集団と化した人類が未来への生存のために漸進を重ねているかどうかを様々な状況証拠から疑わずにはいられない。一方で個といい、集といっても、人間そのものが変容しているとはおよそ思えない。
 なるほど、確かに地球規模の集合にせよ、最小単位での集団にせよ、そこに「人間が介在していない」ということはありえない。ならば一度全ての問題を「人間とは何か」という観点から引き直してみることに端倪すべからざる価値はあるのではないか。観念に埋没しがちな「人間とは何か」というテーマを我々人類が御座成りにし続けてきたことが現今のカオスを呼び出したのではあるまいか。この問題意識を立脚点として継之助と伊達半蔵はこれまでも意見を交換してきたのである。

 現代的諸問題群の解決方途を探る知恵の源泉として、本書『21世紀への対話』は絶好の題材をちりばめている。今から30年以上前の対談だが、人間をありのままに直視しようとしたスタンスは現代においても全く色褪せてはいない。日進月歩する科学技術の進展とは裏腹に人間生命の本質に変化の様相は見られない。21世紀となった現代に生きる我々は当時語られた本書の内容が優れて予見の書であったことを確認することができる。と同時に、我々は本書で鳴らされた人類未来への警鐘を現代的課題に照らし合わせて新たな知恵や具体的方策を引き出すことができる蓋然性を感じ、また信ずる者である。

 こうして本書の検討をブログに書き記すことに決めたのも、WWW(World Wide Web)が高度に発達し、自由に使役できる立場にある状況を「現代的可能性の一つ」と捉え、最大限に利用しようとする試みである。これは発信者である我々の課題整理に益するのみならず、第三者たる閲覧者の存在も見逃せない要素となるはずだ。閲覧者には賛同者も非賛同者もあるに違いない。だが、我々はそこに寄せられるであろう「集合知」には率直に期待を持っているということを表明したい。そして我々は閲覧者にとっても価値ある場を創出しようとする努力を怠らないことを誓うものだ。それが本対談を「未来の人類のため」という志向で、あらゆる困難を排除し完結されたトインビー博士と創立者への報恩の一部であると考えたい。元より浅学非才の身ではあるが、両名が後世の人間に期待をかけられたことを現代に生きる者として受け止めねばならぬと思っている。また、本書から具体的知恵を見出し、実行に移せるような生涯であればこれほどの喜びはないと宣言したい。 
 
 なお、本書の検討方法としては以下のような手法を採った。これは基本方針であるが随時改良を加えていくものとしている。なお、関係者による著作権に関する指摘があった場合は速やかに善処を講じるものとする。

 ・予習(事前に該当箇所を読み込む作業)をして課題を頭に入れる。
 ・対談者の発言通りに継之助と伊達半蔵が相互に読み合う。
 ・テーマはパラグラフ単位で区切り、対談内容を踏まえて語り合う。
 ・現代的課題との照合を図り、問題抽出・課題解決の方向を探る。
 ・仏教徒(創価学会員)としての立場からも考察する。
 ・人生を歩む上での(観念でない)目標の確定を意識する。
 ・意見を出し合った後で、再度、同箇所を読み合い、まとめをする。
 ・課題整理のためにノート等をとりながら、ブログにも記述する。
 ・ブログでは本書のチャプター(章)に準じる形で「カテゴリー」を作成する。
 ・ブログは双方が管理するものとし、自由に意見を交換する。
 ・閲覧者からのコメントには積極的かつ柔軟に応じていく。
 ・その他

 以上、簡便に「はじめに」と題してこのブログはスタートするが、本書の主旨を図らずも損失させることのない最大限の注意を払いながら進んでいく決意である。閲覧者諸氏におかれては、自由闊達にこの場を利用して頂く事を期待し共々に価値あらんことを欲したい。

 結びに、本対談を読み進める上で幾度となく奥深い知識及び知恵の光を垣間見ることがあった。それは読み返す度に新鮮であり、また衝撃でさえあった。両名の確かな課題着眼点と比類なき人間への洞察力、そして人類へ向ける親愛・慈悲の眼差しに心からの畏敬の念を表さずにはいられないことを確かにここに記す。

2007年8月14日

-伊達半蔵-
はじめに | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |

4. “平和憲法”と自衛

2008.10.17 Friday 08:36
 戦争放棄を明確にうたった日本国憲法の改正が半世紀以上にわたって論議されている。選挙の度に自主憲法制定を高らかに叫ぶ声を耳にすることがある。国際社会と密接に紐帯しているわが国の「軍事的貢献」を期待されていることも感じられる今日であるが、日本国憲法9条の規定がそれを為さしめないのである。平和活動のために紛争地域へ自衛隊を派遣することなどは憲法の精神を「肯定的に解釈して」ようやく実現するものだ。世界の平和・秩序維持への貢献がわが国の自衛に通ずるという考え方は依然として強い。だが、紛争地域への人員配置は味方にしろ敵にしろ「武力」との接近を免れ得ない。
 日本国憲法第9条において「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と武力行使を認めぬ宣言をしている。しかし無秩序な破壊による意思表示を行う者がある現実に対して、「力」によらない平和希求という概念が果たして平和を創出せしめるであろうか。国際社会の平和安定のための武力、国家自衛のための武力、国内秩序維持のための武力、そして平和憲法を擁する日本の採るべきスタンス、これら容易ならざる問題について意見が交わされる。

・「自衛」の名の下の破壊行為

 自衛とはその名の通り「自らを守る」という意であるが、核兵器などの超大な破壊力を持つ武器はその破壊範囲を定めることが出来ない。その使用はすなわち相手国に限らず、自国を含めた地球規模の影響を免れ得ないものであり、従来の意味での「自衛の意義」を失っていると言えるだろう。
 トインビー博士は現在のように多数の主権国家が存在する国際構造の下にあって、最も効果のある国家自衛手段は「物理的軍備の保有と軍隊の保持とを、すべて放棄すること」と主張する。だが、その場合でも最小限の武器使用をもって各国内の法と秩序の維持にあたる国家警察軍の存在は認めるべきだとする。もちろん、こうした完全な軍事放棄は他の国家からの攻撃にさらされないように、本質的に他国を傷つけるような国家的行動や政策を放棄することとセットでなければ成り立つものではない。現代においては、ほとんどの政府が主権国家間での一国による他国攻撃が罪悪であることを認めており、戦争を想定して設けられている国家の省庁や予算が“戦争省”とか“戦争予算”という名称を持たずに“国防省”とか“国防予算”などと名づけられていることは意味深長なことであるとも博士は述べている。
 創立者はそこから更に踏み込んで、「国防のためだから、国民の税金を軍備の拡充のために注ぐのは当然だという政府・権力者の言い分はまやかしにすぎない。それにもまして悪質なのは、国を防衛するためだといって青年たちに生命の犠牲を求めるペテン行為である。その“まやかし、ペテン”を最も象徴的にあらわしているのが“国防省”-日本の場合だと“防衛庁(現在の防衛省)”-であり、“国防予算”“防衛予算”という名称である。なぜなら政治権力の多くは、この“防衛”を口実につくりあげた軍事力によって“侵略”を行い、他国民も自国民も、ともに苦難のどん底へと叩き込んできたからである。本当に“防衛”のためだった例はきわめて稀でしかなかったのではないか」と述べて、強い憤りを示している。
 我々、現代に生きる者は既成事実を体に刷り込まれ、それに抗う意思を失わせる「見えざる力」を恐れなくてはならない。今日の世界がいかに軍事に包まれていても、わが国が防衛と称して軍備増強に余念がないことも、「自衛のため」といって平和憲法を改変しようとすることにも敏感でなくてはならない。不当なことに対して「不当である」と断言する創立者のスタンスは、その屹立した人類平和希求の理想を体現するものである。一人の人間がそう考えるだけではなく、これが絶えなく打ち寄せる万波のように、多くの人間が抱く理想にならなくてはいけない。そして多くの人間の理想こそが現実を変革するエネルギーへと昇華するはずだ。そのための創立者による民衆運動の展開・闘争があるのだと筆者は確信するものである。

・真に国を守るために

 現実の国際情勢下にあって、ただ理想を語るだけでは国民国家を危険にさらしかねない。一切の戦力を放棄すると定めた憲法9条が、他国の急迫不正の侵略にあった時に何ができるか。侵略に対して抵抗する交戦も許されないのか。それでは国際法上で当然に認められる自衛権などというものは「事実上、わが国には存在しない」ということになるのではないか。これらが憲法改正をめぐる論争の中心であることは我々のよく知るところである。
 創立者は主張する。「問題は、あらゆる国が他国からの侵略を前提として自衛権を主張し、武力を強化しており、その結果として、現実の国際社会に人類の生存を脅かす戦争の危険が充満していることである。この国際社会に存在する戦力に対応して“自衛”できるだけの戦力を持とうとすれば、それはますます強大なものにならざるをえない。それゆえ、武力による自衛の方向はすでに行き詰っていきているといえる。(この問題解決のために)私は一国家の民衆の生存権にとどまらず、全世界の民衆の生存権を問題としなければならない時代に入ったと考える。私はこの立場から、戦力の一切を放棄し、安全と生存の保持を、平和を愛する諸国民の公正と信義に託した日本国憲法の精神に心から誇りを持ち、それを守り抜きたいと思う」と。
 博士は、国際情勢全般が今後どのような方向をたどろうとも、日本にとっては中国と良好な関係を確立することが極めて重要になるとし、憲法9条をめぐる日本の政策いかんが中国に対する日本の意向をはかる尺度となると見解している。9条憲法を遵守する限りにおいて、中国から日本が攻められることはないだろうとも述べている。日本が戦争放棄を明言し続けている間は、周辺国に対して戦前の日本の侵略行為を想起させ、いたずらに警戒感を与えることはないだろう。その意味で日本が憲法9条を堅持することは、今日のように混沌とした国際関係のなかにあっても、なお有利なことであると博士は結論している。

-伊達半蔵-
中巻・第二章(軍備と戦争) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

3. 代理戦争とアジア

2008.09.15 Monday 18:45
 このパラグラフはベトナム戦争にまつわる分析から意見交換が始まる。当時、米ソ(あるいはこれに中国を加えて)という超大国の勢力がアジア地域において対峙し、不可避に中小国がその争いに巻き込まれていくという構図があった。いや、これは現在でも形を変えて存在しているといえるかもしれない。超大国の代理戦争の爪痕が深く残っている地域として、韓・朝鮮半島が挙げられよう。38度線を境に同民族が南北に引き裂かれた悲劇の歴史が日本人である我々の日常にも大きな影を落としていることを否定する者はあるまい。戦争は一国でするものではないのが道理で、必ずこれには対立軸が存在する。主体的に戦争を行う国家もあれば、不承不承巻き込まれる国家もある。戦争は絶対的に「悪」であるとする両名に、この問題はどう映るのか。

・新しい国際的原理を求めよ

 創立者はベトナム戦争にカンボジア、タイ、オーストラリア、ニュージーランドが大国の圧力によって加担させられたことについて、困難であるとはいえ「自国は中立と不関与を守ると言明する」道があったのではないかと訴える。それは確かに大国の意図とそぐわないために不興を買うことは十分考えられることである。しかし創立者は「こうした態度(中立・不関与を貫く)から、さらに相互防衛あるいは集団安全保障という、現代世界における武力を中心とした国家間の提携、協力関係のあり方そのものまでが問い直されることも考えられる。それは厄介で大きな問題だが、少なくとも今後戦争の火が一国から一国へと次々に広がって大戦争にまで発展するのを防止するためには、そうした新しい国際的原理が打ち立てられる必要があると私は考える」と述べ、加えて「相互防衛、集団安全保障という考え方は侵略主義の脅威に対して防衛的な価値を持つものとして生まれたはずのものが、現実には何らの効果も発揮できなかったばかりか、むしろ2度にわたる世界大戦を生んだのも、じつは他ならぬ、この相互防衛ないし集団安全保障という原理であったということが結果的に言える」と指摘し、同盟国家の安全を確保する営みが実は戦争に化けてしまうというカラクリを厳しく批判している。
 トインビー博士は創立者の指摘する事例の他にレバノンのケースを挙げて、周辺国の交戦に不可避に巻き込まれてしまう事態を概説する。ここでの状況は更に深刻で、隣国イスラエルとの不協和音が、国内のキリスト教徒とイスラム教徒の対立に還元されてしまい、内戦寸前の状況が作られてしまうという悲劇である。「政府はレバノンを根拠地として作戦を展開するアラブ・ゲリラや、また、ゲリラへの報復としてレバノンを襲撃するイスラエル人を制止することができずにいる」と博士は述べ、しかもその責任はレバノン自身にあるわけではないという点を指摘している。
 戦争や紛争が起きる要素は実に様々であり、複雑に世相が絡み合っていて容易に戦争起点の解を得ることは難しい。自国の政府が全く関知していない事情でも、否応なく戦火の対応に追われることが少なくない。課題は山積みである。

・争いの種は極限まで減らせ

 上記のような問題を踏まえて創立者は次のように指摘する。「自国のなかに解決困難な分裂があり、互いに争っている場合、それが国際社会における抗争と結びつき、国全体が戦争に巻き込まれてしまう恐れがある」と。国内の紛争勢力の間に極端な力の開きがあると、劣勢に立たされた側は国外勢力を援助に駆って、結果として自国の安全を脅かす結末を招きかねないということも推測されよう。博士はこうした問題に対して、(政府や権力所持者は)ともかく人間に対して公正に処遇することが必要であると見解している。人間として公平な権利と機会を与えることは国の重要な責務であり、無用な争いを惹起させない基本要件であることは明らかだ。
 なお、博士はパラグラフの終わりで代理戦争がアジアを中心に繰り広げられた理由について、米国が考える地理的(地政学的とも言えるか)な条件が整っていたからであろうと見解している。それは、ソ連や中国の直接介入という重大な危険を冒さずに戦える場であるからという指摘である。

-伊達半蔵-
中巻・第二章(軍備と戦争) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

2. 原子力の平和利用

2008.09.05 Friday 07:01
 人類の先行きを考えた時、エネルギー資源問題はどうしても避けて通れない課題である。何しろ人間の利便性の確保とエネルギー消費はトレードオフの関係にある。地球の誕生から46億年が経過していると言われるが、その長大な時間に蓄積された化石燃料を人類はわずか100〜200年ほどで使い切ってしまおうとしているわけだ。
 農林水産業のような一次産業においてすら、エネルギー無しには成り立たない時代である。原油高の影響を受けて漁船が休漁になった話も耳に新しい。人類の人口はいまや66億1500万人を超えたと言われる。食料も大量に生産しなければ追いつかない。勢い、大量生産には効率的な生産計画及び体制が求められる。それには機械の投入が不可欠である。機械はすべからくエネルギーを必要とする。鍬や鋤を振りかざしているだけではとても需要に応えることなどできない。エネルギー問題は現代においては衣食住のすべてに紐帯している。化石燃料・水力・風力・波力・太陽光・原子力、または新エネルギーとそれぞれに利点・欠点が存在する。ここでのテーマに取り上げられているのは原子力である。

・原子力は諸刃か

 創立者の師である戸田城聖創価学会第二代会長は昭和32年に「原水爆禁止宣言」を発表して、大量破壊兵器の存在そのものを許さず、また、それを使おうとする人間の内奥に潜む他者に対する破壊の衝動をもぎ取らねばならないと宣言した。破滅的で無差別な破壊力を持つ原子爆弾を人類共通の敵と定義した意義は、今日に至ってより深く現代人の肺腑をえぐるものと言えよう。後戻りの効かない危険性を孕むというのが原子力の持つ負の側面である。
 一方で創立者は原子力は技術的に「これから」のものであり、その単位あたりのエネルギー量からみても石油・石炭に代わる動力源として大いに期待できるとも述べている。当然、用途を誤れば人類を地球上から抹殺してしまう危険性を抱いていること、また核燃料廃棄物の取り扱いや想定外の地震対策など、未解決な問題も非常に多い。だが「危ないから用いるな」といった思考停止にも似た論理に話を還元しないで、「いかに人類にとって価値あるものにできるか」を思考することは、人類の未来に責任を持つ現代人としてどうしても必要であろう。様々な危険性が想定されるなかでも、特に最大の課題は原子力研究が軍事に転用されることをいかに防ぐかということだと創立者は指摘し、この点について今日のIAEA(国際原子力機関)のような役割を持つ組織の整備を提唱している。
 トインビー博士は「世界中の人々が原子力の戦争目的への使用を放棄することに同意しない限りは、またその放棄を実質的に厳守せしめる有効な権限をもった世界機関が樹立されるまでは平和目的への原子力利用を進めるのは安全ではないだろう」と述べて、現代の人類が直面している核問題を見通していたかのような主張をした。
 核兵器問題に関しては近くは北朝鮮、遠くはイランが核兵器の製造を公にし(イスラエルのように本来は非保有国であるはずが、半ば公然と所有を認めるようなケースもある)が、核査察の拒否、IAEAの国外追放などの措置に出て、核の軍事転用へのタガを外し始めていることが明らかになっている。実質的にIAEAがその実効力を発揮できないとなれば、核兵器開発を抑制することが難しくなる。NPT脱退やIAEAの手入れを拒否することが可能であるという現在の仕組みでは、博士の懸念した状況が生まれやすいと言えよう。
 ここでは詳しく論じないが、シンプルに考えてみても、核の保有国が非保有国に対して「持ってはならない。危険であり、平和を脅かす」などと言ってみても、それが十分な説得力を持つといえないのは当然のことであろう。ある意味では核兵器の廃絶への道は、現保有国の態度如何にかかっていると言っても過言ではあるまい。超大国は自らの見識と責任で、核兵器問題をどうするのかということを真剣に己に問わねばならないであろう。

-伊達半蔵-
中巻・第二章(軍備と戦争) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

1. 経済発展と戦争

2008.08.20 Wednesday 07:03
 このパラグラフから対談は中巻第二章に入る。人間のサガなのか、生物のサガなのか、この大地において争い、そして殺しあう忌わしい歩みはとどまる事など、まるで知らないかのようだ。
 地球上の注視すべき関心事から戦争や紛争が外れたことはない。この記事を書いている現段階でもグルジアでの紛争にロシアが介入して大規模な戦闘が惹起しており、国際社会の関心を強くひいている。また北京五輪が開催中であるが、中国を囲むチベット問題や台湾問題、北朝鮮の問題やアフリカの民族間紛争など巨大な難問が幾重にも重なって地球上に暗い影を落とし続けている。
 対談では解決困難きわまる戦争とその周辺事情についてテーマを絞り、人類が戦争と決別するために目指すべき指標を提示する。

・戦争の本質

 そもそも世の争いごとを考えてみるに、理由もなく誰かを殴ったり、自己の抑え難い感情だけを根拠に他者を破滅に追いやるなどという事態は、それほど起こるようなことではない。言語を使って意思を伝達することが常態動作として備わる人間は、その望みを暴力行為に訴える前に、そうした手法を使って相手との妥協点を探ろうとするものだろう。これは国家間による利害調整交渉においてもそれほど差異はないものと思われる。
 一般的に戦争は国家間の問題解決のために行われる外交が失敗に終わった時に採られる手法であると認識されているが、創立者は「現代では戦争ないし戦争準備は政治的要因もさることながら、それ以上に経済的要因によることが定説になってきているようだ」と見解する。もちろん、これは複雑きわまる戦争の要因を「経済」に絞るような見方をしているわけではない。だが、戦争が軍需産業や工業生産の拡大、関連技術革新などを誘発牽引し、それらが国家の経済行為と抜きがたい連環構造になっている点を注視すれば、戦争廃絶のために経済発展の問題をどのように捉えていくかということに検討を加えることは重要な意義を持つと言ってよいだろう。
 トインビー博士は「紀元前5世紀のギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、『戦争は万物の父である』と言った。たしかに戦争は技術の進歩や経済の成長に刺激となってきた。軍資金は経済力そのものだし、兵器は技術の産物である。互いに必死の攻防戦を繰り広げるとき、その国民のエネルギーは極限まで高められ、そのため交戦国はともにその技術的創意性と経済力とを最高度に伸ばすものだ」と論じて戦争と経済の関係を分析する。もちろん、創立者も博士もこうした経済発展が展望できる故に「戦争が肯定される」ということを全く容認することはない。

・経済発展の手法としての戦争を「置き換えるもの」

 創立者は「戦争や戦争準備は、たしかにこれまで経済発展の大きな要因となってきたが、私は戦争以外にも経済の発展と安定化をもたらしうる要因はいくらでもあると思う。たとえば、社会保障や教育の充実、住宅の建設、対外援助といったものがそれである。それらはいずれも巨額な資金を必要とするものだが、各国の経済に刺激を与えるには十分な要因となりうるはずである」と述べている。
 博士は「数ある経済への刺激のなかで戦争は最も高価なものでしかない。この最も高くつくという一事をもってしても、戦争が最も望ましからざる刺激であることは間違いない。近い将来において、われわれは軍事面以外の刺激にこと欠くことはなくなるだろう。急速に近づきつつある歴史上の次の段階にあっては、人類はただ自らの生存を守ることにのみ、全力を注がざるをえなくなることだろう。われわれは世界経済を安定させ、人口爆発を食い止めざるをえないだろうし、また過去にもそうであったし、いつの時代でもそうあるべきだが、人間の主要な関心事として宗教を復権させる必要がある。人類は全精力を奮い起こして行うべき仕事を両手に余るほど抱えていることだろう。そのようなとき、われわれはもはや戦争は必要としないだろうし、また戦争をしている余裕など、きっとないはずである」と主張した。
 今日、博士の見通したとおりに人類は自らの生存を守ることに力を傾注しなくてはならなくなっている。深刻な地球環境問題をはじめとして、やがては掘り尽くす運命にある化石燃料に傾きすぎたエネルギー消費問題、代替エネルギーの供給源として投機商品の対象になってしまい異常な高騰を見せる食料問題等々、数多くの解決困難なアポリア(難問)が人類の前に立ちふさがっている。どれひとつとして人類の生存に無関係な問題はないのである。愚かな戦争をして地球全体の利益を損なっている場合ではない。冷静に考えてみれば、これほど単純で明快な話はあるまい。人類は地球を守るため、自己を守るために全精力をかけて行うべき仕事が抱えきれないほどあるのだ。博士の指摘するとおりである。

-伊達半蔵-
中巻・第二章(軍備と戦争) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

8. 愛国心と人類愛

2008.08.16 Saturday 13:37
 近年、我が国ではナショナリズムの台頭に警戒心を持つ者が増えているという。偏狭で排他的な国家主義を高らかに叫ぶ雰囲気をどこかに感じるのは確かである。特に国内で勃発する事件に在日韓国人や中国人などをはじめとして、外国に由来する者が関与していると疑われる場合などは、そうした角度での非難が顕著なようだ。それに煽られ国民の一部がインターネット上などで過剰な反応を示す場合も少なくない。これなども一種の愛国心の形態とは言えるだろうが、そもそも国を愛する姿勢と排他的姿勢が一体のものであるという根拠はどこにもない。
 元より、その愛すべき対象である「国家とは何か」という存在論的な議論もあるわけだが、人によってそれは「国土・領土」であったり、「法律の及ぶ範囲」であったり、「同一の言語や社会制度を持つ範囲」であったりして容易に解を得ない。だが、このパラグラフではそうした問題を取り上げてはいない。あえて言うならば民衆が「我が国」と漠然に感じ取るところに対して、愛国心を抱いているものとすることでそれほど外れてはいないだろう。

・「集団力の崇拝」という愛国心

 創立者は「自分自身が生きている国土や社会を愛し、より発展させていこうと願うことは、元来、自分の生命を慈しみ、生活を向上させようとする人間の本性に根ざした心情が社会的な方向をとったものであると思う。それ自体は美しいことであり、人間として大切な問題である。そうした意欲も気力もなかったならば、今日の人類社会の発展はなかったことだろう」と述べて、一般的な愛国心のあり方を表現している。しかし、自身の生存する社会への自然な愛がひとたび国家対国家の対立の中に巻き込まれ利用され始めると、それは妖しい光を帯びてくるとも指摘する。加えて「これは人間の心の自然の発露が、国家というまったく次元の異なる原理によって変形させられるからだと思う」と主張し、愛国心が本来的な意味とは違った形で削り出されていると捉えているのである。そうした人間の心の発露としての愛国心が「国家主義」によって歪められ、利用され、踏みにじられてきたことは事実であり、そこでは、自己の生存する社会への純粋な愛であったものが、他国民への憎悪ないし蔑視に変わり、自己と社会の共存の理念であったものが、いつの間にか国家社会のための自己犠牲へと変質していったと論じているのである。
 トインビー博士はこの種の愛国心について、それは「地域共同体の集団力をその崇拝の対象とする宗教」であると指摘している。その例としてギリシャ・ローマの歴史を挙げ、各地域の集団力への崇拝がやがてローマ帝国全体の集団力に対する崇拝へと変容していった経緯を通し、「ローマ帝国は領民が知る限りでは“天下万物”を治めており、その意味では同帝国の権力は世界的なものであった。しかし、ローマ帝国はそれよりも長く存続していた帝政中国と数世紀にわたって並存していたのであり、帝政中国もその領民が知る範囲では、やはり“天下万物”を治めていたのである」と述べている。これは領民が「わが地域を絶対的な存在」と認識していたことを示しているが、同時にローマや中国は互いにその存在を知らなかったのであり、その意味でそうした「自分の地域の絶対性」は事実ではなかったことが今日では明らかであるという意味である。各々が自分の地域の全権性を確信するとき、それは今日問題視される「狭量な愛国心」と相同を為すことになる。そうした絶対性の存在が地球上に複数あると仮定する場合、それらは必然的に反目しあうことになるだろうし、事実そうして血塗られた歴史は重ねられてきたのではないだろうか。

・現代的な愛国心のあり方

 創立者は「現代人にとって、生活の基盤はすでに全世界的規模に広がっており、かつてのように人間の生存の基盤が国家という限られた狭い枠に閉じ込められ、しかもそれが人間生存の不可欠の要素と信じられた時代とは、もはやまったく様相を異にしている。現代においては自分が生きている国土とはそのまま世界を意味するといえるだろう。したがって、かつての本来的な愛国心の理念にあたるものを現代に求めるとするならば、それは世界全体を“わが祖国”とする人類愛であり、世界愛でなくてはならないと思う。その時、国家的規模における国土愛は、今で言う郷土愛のようなものになっていくのではないだろうか」と述べ、愛国心の対象が「地球規模」になっていくべきことを訴えている。
 地球における現代的課題を見据えてみれば、特に環境問題、エネルギー問題、食料・水の問題などが強く取りざたされているのは誰もが知るところである。これはもはや特定国家や地域の問題ではないことは自明であり、しかも地球に住む人間全てに甚大な影響力を持って迫ってきているのである。創立者の指摘するとおり、すでに人類の生活基盤は全世界的規模に広がっている。そうした現状において、特定国家や地域を特別視する偏狭な「愛国心」が必要であるとは思われない。
 博士もパラグラフの終わりで「いまや人類の居住地全体が技術面で統合されているのだから、心情面でもこれを統合することが必要である。これまで人類の居住地のうち、局地のみに、そしてその住民と政府のみに捧げられてきた政治的献身は、いまや全人類と全世界、いな、むしろ全宇宙へと向けられなければならない」と主張し、人間が愛すべき対象の拡大こそ、人類の平和安定のために肝要であることを強く訴えている。

-伊達半蔵-
中巻・第一章(二十世紀後半の世界) | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |

7. 民族再建と共産主義

2008.07.28 Monday 18:01
 今日、世界では共産主義を採用する国家は減少の一途を辿っている。それを共産主義の敗北と主張することは容易いが、ここでのテーマはそれではない。また共産主義というイデオロギー自体を検討しているわけでもない。20世紀に激しい近代化の波に全地球上が覆われていく中で、共産主義という手法を取り入れて一定の成果を挙げた国家、あるいは失敗に終わった国家がある。それは国家に共産主義が根付く土壌があったかどうかという視点を我々に提供するものであるとも捉えられる。イデオロギー自体が持つ「性質」を分析することはもちろんだが、結局そうした思想信条を受け入れられるかどうかは「人間の側」が決めることである。では「その土地その土地の人間の思考を方向付けるもの」についてはどう考えるべきなのか。このパラグラフで語られていることはそういうことである。

・近代的イデオロギー登場以前の国民思想がカギに

 創立者は中国において共産党体制が確立し、政治的安定を得た事実を例に挙げながら、共産主義が比較的容易に中国に受け入れられた背景に「中国人に伝統的合理思想」があったことを指摘する。道教は別として、儒教は合理主義的な政治哲学であり、人生哲学でもある。そういう意味での非宗教的な精神性、合理主義的な思考の伝統がマルクス・レーニン主義を受け入れるのを助けたのではないかと述べている。
 トインビー博士は「共産主義はある面では、科学的合理主義という近代西欧宗教のいかがわしい一変形であり、中国のように、その国在来の支配的伝統が(儒教のように)合理的、権威主義的であるような国では、比較的受け入れやすい」と述べ、創立者と同様に共産主義が根付く背景として国民に合理的思想の系譜があったことに着目する。政治というのは一見すると「為政者の思想」が強く反映されるものと思われがちであろう。事実、国家の舵を切っているのは為政者である。だが、政治の影響を受けるのは国民だ。国民自体に政治体制を受け入れる土壌がなければ、その支持を取り付け続けることは難しいだろう。長期に亘って政治的安定を国家にもたらすには国民の同意が不可欠である。

・宗教的狂信性からナショナリズムへの転化

 博士はイスラム教について、キリスト教よりも合理性を持ち、かつキリスト教と同じほどに権威的である性質を持ちながら、共産主義に対して拒絶的であることに驚きを示している。イスラム国家が備えている合理的かつ権威的な国民性が儒教国家である中国に相当すると判断するならば、イスラム国家が共産主義を受け入れない理由が不可解であるというわけである。
 創立者はこの点について、「イスラム教徒にとっては服従すべき対象、すなわち権威がアラーの神として厳然として定まっている。しかもこの神は、たんに死の彼方の世界だけでなく現実のこの社会と人生においても強い規制力をもって君臨している。したがって、別の服従の対象がそこに入り込む余地がないわけで、これがイスラム教徒の共産主義化を困難にさせている理由ではないかと私は推測している」と述べている。
 博士が指摘するように共産主義が一種のユダヤ系宗教の変形形態であるとするならば、創立者が述べるように崇拝する対象が明確に定まっているイスラム教徒に対しての影響力の行使は極めて困難であるように思われる。事実、イスラム圏での共産化はほとんど進んでいない。そういう角度で見れば、イスラム圏同士の国家や国民、民衆の強力な紐帯原理による連帯・団結が想定されるところであるが、近代に入りイスラム圏での紛争が勃発する要因を見ると更に国民国家の様相が変転していることを歴史の上に明らかにしている。
 博士はそれについて、第1次大戦後のトルコにおけるイスラム法を逸脱した政治改革の例や、パキスタンとバングラディッシュの対立例を挙げ、ナショナリズムがイスラム教を凌駕する影響力を持つに至ったことを指摘している。この点について創立者は「言い換えれば、イスラム教が宗教として持っていた狂信性は、今日ではイスラム教徒をナショナリズムへと傾斜させていく起動力になっているということだろう。このナショナリズムへの転化というのは、中国が共産化していった過程のなかでもみられることである。つまり、中国は決して直線的に共産主義に走ったのではなく、その道程は民族主義化の里程標を経由してきているように思われる。そしてこの経緯は、共産化に成功した今日においても中国の重要な性格として残っている」と述べ、合理的資質を備える共産主義の面と、民族主義の面とを持つ中国の複雑性を明らかにするためには、中国の伝統の精神的土壌をもう一度掘り起こして考えなければならないと主張するのである。
 創立者は「中国において、かつて儒教が育んできたものは、個人が大いなる秩序に服する姿勢であり、権威あるものを認める思考であった。その対象は父母であり、先輩であり、王であり、指導者であるという具合に、場合に応じて変化しうるものであった。ここから、最高の人格者としての“君子”という考え方、それに最高の権威としての“天”という考え方が展開された。また、こうした人間観と秩序観が「修身、斉家、治国、平天下」という道徳的な政治理念に整合されていた。こうした精神性は、共産化した今日の中国においても、その民族的性格の底に流れているのではないだろうか。それゆえにこそ、マルクスやレーニンや毛沢東、そして社会そのものが忠誠の対象として自然に受け入れられているのだと思う」と結論している。
 このことを踏まえて考えてみると、一国の社会制度や政治体制を把握する場合に、その国の国民がどのような思想の系譜を持っているかということが決して軽い問題ではないことが分かる。そうなると一国の秩序を保つことを考える上で今後の課題となるのは、「いかに国民に次世代の平和安定のための思想を織り込んでいくか」ということになるだろうか。

-伊達半蔵-
中巻・第一章(二十世紀後半の世界) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

6. 国家解消論

2008.06.02 Monday 19:32
 「国会解消論」と聞くと、アナーキズム(無政府主義)が思い起こされるが、ここでの話はそれではない。経済、軍事、文化、情報などをはじめとして、グローバリズムが誰の目にも明らかな今日、世界に散らばる国家がそれぞれ単立でそれを維持できるような時代ではなくなっていることにそれほど異論はあるまい。そして「国家」という現在の枠組みが地球を安定させる最終形態であるとも思えない。地球の平和安定を考える上で、最も理想的な人類組織をどのように考えるか。それがこのパラグラフのテーマである。

・国家という単位の終焉

 冒頭、創立者は第二次世界大戦以降に国家の威信が失墜しつつあることを指摘し、その原因として幾つかの点を挙げている。まず、経済や文化をはじめとして人間の諸活動について国際交流が活発化し、これらが国家権力の介入する領域からはみ出ており、むしろ国家権力の存在が自由な国際交流の妨げともなる点、今日は核戦争が予想される時代であり、戦争規模が一国の手には負えなくなっている点、企業や労働組合などの国家から独立した目的を持つ社会集団の組織化が進み、個人がこれらの個別集団への帰属意識を国家への帰属意識以上に強く持つ点、“体制”と“人間”とは対立するものだという見方が強くなっており、国家権力の横暴や権威主義に対して人々が強い反感を抱くようになっている点などを具体的に示した。
 加えて、第二次世界大戦後の軍事裁判における「法の観点」から紡がれる矛盾点を指摘しながら、その一方で「国家といえども平和と人道を侵した者は処罰される」という歴史的事実を残したことについて一定の評価を下している。意思決定の最高単位である国家が裁かれるという事態は、まさに国家における絶対性が崩れ去った出来事であったと読み取れるということである。現在の国家は戦争をするための交戦権やその他、国家を利するためのあらゆる権限を個別に有する「絶対的存在」であるわけだが、場合によってはその行為によって「裁かれてしまう」こともあるという矛盾した存在でもある。国家がこのような撞着を孕んだまま将来を突き進むことに創立者は疑念を抱き、その根本的改革の必要性を熱望する。すなわち各国家は「世界連邦」の形成に移行し、現在のような「国家群」が解消されるべきであると訴えるのである。
 トインビー博士は、ナショナリズムを「民族国家の集団力に対する崇拝」と定義し、これが脱キリスト教時代の西洋における主要な宗教となり、他のいかなる近代宗教よりも熱心に多くの人から信奉されてきたと見る。そして「主権国家は、そのいずれもがあらゆる類の残虐行為を許された神聖な権利を持つ「神」として遇されている」と説く。事実、これまで主権国家は理念のうえでも実際の面でも、いかなる法の拘束も受けることはなかったと述べ、その「神聖さ」が国家の横暴を常に許す形になっていることを指摘している。そして「国家はその主権を剥奪されるべきであり、すべて全地球的な世界政府の主権のもとに従属させるべきである」と主張し、「いつまでも戦争遂行権や非軍事的な人事万般への最終発言権をもつ政治単位としてとどまっていてはならないし、またとどまることも出来ないという考えに帰着せざるをえない」と結論した。
 人類が地上における可住地域の分割統治形態を「国家」という概念に委ねている間は、不毛かつ容易に除去しがたい問題を生み出し、繰り返し、累積し、そして再生産するという「悪魔のスパイラル」を地球上に投下し続けることになるだろう。両者が志向する次世代のあるべき「地球観」が示すものは、このスパイラルと対峙する人類の智慧である。創立者があらゆる困難や矛盾を承知の上で、現在まで一貫して国連を支持し続ける理由はここにある。地球上の国家や民族は「分断から連帯へ」とパラダイムシフトしなくてはいけないという不変の信念と強固な意思がそこに垣間見える。このテーマについて創立者と同様の結論を抱く歴史学者としての博士の慧眼は、国連がその存在意義に疑義を持たれる今日において、人類が創造すべき前途に重要な示唆を与えるものであると言ってよいだろう。

-伊達半蔵-
中巻・第一章(二十世紀後半の世界) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

5. 王制の将来

2008.05.17 Saturday 10:49
 日本やイギリスの採る統治形態の特徴として「立憲君主制」が挙げられる。どちらの君主も政治上の権力を行使することはないが、国家を統治・安定化する上で大きな役割を果たしてきたとも言える。こうした王制の将来は世界の趨勢の中でどのようなものになっていくであろうか。

・崇敬心と権力の分離

 創立者は「イギリスが他のヨーロッパのどの国よりも早く政治的安定を得て、しかも国民のエネルギーを存分に発揮させることができたのは、イギリス人の気性もさることながら、この“体制”に負うところが大きかったと思う。日本の場合、幾多の内戦、権力者の交代、さらに外国勢力との相克があったにもかかわらず、日本という独自の文化的母体を形成してきたのも、やはりこの“体制”によるところが大であったと思う。少なくとも、分立国家が世界的風潮であった近世から今日までの歴史においては、崇敬の対象と権力行使者とを分離したこの“体制”は、きわめて有利な結果をもたらしたといえそうだ」と述べている。いつの時代もそうであるが、国民国家を安定して運営していくことは非常に困難を伴う作業といってよい。人間は万人がそれぞれの感情を有しており、充足感や不満足感もまたそれぞれである。そうした千差万別の本質を持っている人間を、専制であれ合議であれ、一つの制度にはめ込んでいくことの困難さを人類はつくづく知っているはずだ。時にその体制を転覆せしめんとして蜂起や革命が起こることもあり、幾万の命を失い、想像を絶するほどの血が流されてきたのである。特に国家の統治者が権力と崇敬心とを同時に国民から集めている場合、ひとたび統治に対する不満や憎悪が増幅されると、それらは権力者へと集中し、政治的安定が脅かされる危険性が高いともいえよう。その点で、日本やイギリスのように君主と権力者が分離した体制は、君主に対する崇敬心の乱高下という状態にはなりにくいものと見え、結果的にそれなりの安定性を国家に提供するものと考えられる。
 トインビー博士は立憲君主制の利点を踏まえながらも、「しかし、日本やイギリスの制度といえども、あらゆる政治上の問題を解消してきたわけではない。ここでは事実上の権力者が、その権力を公的な君主の名のもとに行使するわけだが、彼は国民に自分の政策を支持させようとして、どうしても王権の威信に頼りがちである。これに対して、国王としては、自分の名において実施されながら自らは何の発言権もない政策を承認せざるをえないし、またそれに対する公的な責任もとらざるをえない。立憲君主の役割というのは、心理的に報われることの少ないものである」と見解する。そして現存する立憲君主制は他のどの君主制よりも長く存続するだろうが、最終的には君主側の人間が魅力のない職務を継承しないことによって姿を消すのではないかとの見方を示している。

-伊達半蔵-
中巻・第一章(二十世紀後半の世界) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

4-2. 日本とイギリス(外交姿勢)

2008.05.12 Monday 23:28
 地理的に日本はアジア諸国、イギリスはヨーロッパ諸国の周辺に存在する国家である。一方で政治的には両国ともアメリカの強い影響力を受けざるを得ないという現実もある。国際政治の舞台において、両国が目指すべき外交スタンスはどのようなものであろうか。

・地域的連帯こそ重要

 トインビー博士は、日本とイギリスの両国がアメリカと密接な関係を持つ必要性を認めながらも、「両国にとってさらに重要なのは、アメリカとの関係よりも、むしろ近隣の大陸との関係であることがやがて明らかになると信ずる。それゆえ、私は両国がそれぞれ隣接する地域の国家グループ、つまり日本の場合は東アジア、イギリスの場合はヨーロッパと提携していくことを期待し、希望している。さらに全人類を究極的に世界大の規模で統一する上で、こうした地域的な提携が障害とならず、むしろ踏み石となることを望む」と述べ、海洋国家たる日本、イギリスの両国が隣接する大陸との提携を一層深めていくことの重要性を示唆している。
 当時博士が希望したこうした想定は、今日、緩やかではあるが前進を遂げている部分があると言ってよい。日本は中国との国交を回復し、今や貿易相手国としてアメリカをしのぐ存在となっており、経済的にも文化的にも相互の存在が不可欠になるほどの関係になってきている。イギリスも早い段階でEUに加盟を果たし、アメリカとの親密関係を保ちながらも「ヨーロッパの一員」としての存在感は一貫して高いものであると評価できよう。だが、これらも良い要素ばかりでは決してなく、北東アジア地域は南北朝鮮関係が融和したり冷え込んだりを繰り返して安定せず、特に北朝鮮の際立った異質ぶりが問題視されており、6カ国協議を開催するものの平和安定への道程は遥かである事を感じさせる。日中にしても尖閣列島問題や東シナ海のガス油田問題、韓国とは竹島問題や歴史認識問題、ロシアとは北方領土問題を抱えており、大小の軋轢は数知れないところだ。イギリスはEU共通通貨であるユーロの導入を渋り、EU全体経済活性化に向けては足を引っ張る状況にもなっているといわれる。こうして一概に日本・イギリスの両国が大陸との融和を順調に進められているとは言いがたい部分もあるが、海が大陸と自国を隔てる「壁」であった時代に比べれば、歩みは緩やかでも友好関係の維持向上については漸進をしているものと見え、博士の想定した状況に近づいてきていると考えられなくもない。

・向米一辺倒を是正せよ

 創立者はイギリスの外交姿勢について、自由諸国の中で最初に中国を承認したことを挙げて、その「自主的外交姿勢」に対し高い評価をしている。一方で日本の外交政策はアメリカ追従の非難を免れ得ないとし、その向米一辺倒のスタンスを是正すべきであると主張する。アメリカに対しても「是は是、非は非」とする自主性を発揮することを日本国民も望んでいると述べ、その方が結果的にはアメリカにとってもプラスとなり、恒久的な友好関係を導くことができるのではないかと推測している。
 博士は日本は中国をはじめとする東アジア諸国と提携することによって、初めて対米依存を離脱することができると洞察する。現在、日本は中国との連携にも意を砕き、アメリカとの友好を最優先に保全しているという「バランス」をとった状況を創出している。軍事的な角度での問題がある限り、完全な対米依存脱却は難しい部分もあろうが、少なくとも日本と中国が友好関係を保っていることが北東アジア地域の安定に寄与していることは確かであろう。それ故か、この地域におけるアメリカの支配力は一時期よりも漸減していると思われるが、台湾問題なども未解決であり、安直な観測はまだ出来そうもない。
 また、東アジア諸国と言っても、何も中国だけが国家ではないのは自明である。日本が過去に侵略行為を行った国家が日本に対する眼差しに警戒心を秘めるのは当然で、そうした国々への日本の援助・支援が真に「人道的」な見地で行われるべきことを両者は訴える。日本の将来的な経済利益を想定した「援助」では、東アジア地域との本質的な連帯感・提携が生まれる理由がない。博士は発展途上の国が「自立の方向を確立できる支援」が望ましいとし、その内容として教育、芸術、保健衛生、科学、技術などの諸分野での援助が有効であると提案している。

-伊達半蔵-
中巻・第一章(二十世紀後半の世界) | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |